苦悩の大きさだけは文豪並み

なけなしの文才の無駄遣い。

Close Encounters of saury

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唐の詩人の于武陵(とそれを翻訳した井伏鱒二)は「さよならだけが人生だ」と言っている。人が生きる上で、別れは避けられないものであり、人生の終着点である「死」を迎えた時には、この世界とお別れすることになる。とはいえ、「さよなら」ばかりが人生ではない。いずれ「さよなら」に行き着くとしても思いがけない出会いが人生を豊かにするのもまた事実だ。そんな出会いを求めて、今日もカレー屋の扉をくぐる。そしてサンマをまるまる一尾トッピングしたココナッツカレーを注文する。

浅野いにおの『ソラニン』に焼き魚カレーという食べ物が出てくる。残り物の焼き魚とカレーを組み合わせた食べ物でお箸で食べるべきか、スプーンで食べるべきか悩む代物だ。この焼き魚をオイル漬けに置き換えてみるとどうだろうか。骨まで柔らかで、食べる際に身をほぐす必要はない。そうなれば、スプーンだけで食べることができる。ここまでは容易に発想することができる。しかし、オイル漬けにする魚といえば、イワシとか、ホタルイカとか、さほど大きくないものがほとんどだ。サンマほどの大きさの魚をオイル漬けにするという発想はなかなか出てこない。仮に出てきたとしても、まるまる一尾で作るというのは、暴挙と言って差し支えないだろう。ましてや、それをカレーにトッピングするなど、狂気の沙汰である。だが、その狂気が、既存の、凝り固まった価値観を打ち壊す瞬間は、たまらなく心地良い。

運ばれてきた皿からは、サンマがはみ出している。この時点で相当のインパクトだ。果たしてカレーは。ココナッツで暴力性は抑えられているとは言え、びりびりと舌を突く刺激。見た目のインパクトだけの出オチカレーではない。サンマがなくとも十分においしい。続いてトッピングのサンマ。骨まで柔らかに煮込まれていて、スプーンで難なく切ることができる。焼きサンマとは違う、しっとりとした食感。このサンマだけで、お酒が半升は飲めるのではないかという完成度。しかし、今日はカレーである。スプーンで身を崩し、カレーと混ぜて食べる。サンマの旨味がカレーのまろやかスパイシーさに加わり、相乗効果でおいしさを増していく。そして何よりおいしいのが内臓だ。焼きサンマでは食べるのを躊躇してしまう、苦味がある内臓だが、カレーと合わせて食べると、その苦味が絶妙なアクセントになって、カレーがよりおいしくなる。カレー、サンマ、サンマカレー。何度も何度もそれを繰り返す。そしてあっという間にサンマの身はなくなり、頭だけになる。しかし、これで終わりではない。オイル漬けであるがゆえに、サンマの頭も食べられるのだ。恐る恐る口に運ぶ。ザリザリした食感を予想していたが、それは大きく外れる。とても柔らかい。そしてカニミソのよえな濃厚な旨味が口いっぱいに広がる。普段、こんなにおいしいものを食べずにいたとは。そんな後悔すら抱くほどの発見であった。そして皿は空になった。

空っぽの皿を残して、席を立つ。さよならだけが人生。別れの際にはやはりそう思ってしまう。しかし、全てが永遠のお別れではない。いつかまた出会うための、しばしの別れもあるだろう。このカレーにまた出会えるのは、次の秋になるかもしれないし、ひょっとしたらもう出会えないかもしれない。いつかまた出会いたいという期待を込めて、わたしはこう言う。

「またね。」