苦悩の大きさだけは文豪並み

なけなしの文才の無駄遣い。

NGY大学不思議譚⑤ガーになった男

6月上旬。梅雨入り前だというのに、連日雨が降り続けている。そんな憂鬱を振り払うように、学生たちは皆、うきうきとしている。今週末にはN大祭があるのだ。サークルにも部活にも属していない人間からすると、特にうきうきとする理由もなく、むしろ浮ついた空気を疎ましく感じるほどである。幸いなことに、木曜日から講義は休みになるので、大人しく部屋に引きこもっていよう。

土曜日。相変わらずの雨だ。この週末は絶対に家から出ないという決意をしているので、天気がどうだろうと関係はないのだが。布団から這い出てコーヒーを淹れようとお湯を沸かしていると、インターホンがなった。

「はい」

と出た声は、自分でも驚くほどガサガサしていた。季節外れの風邪でも引いたのだろうか。

「僕だよ、僕。」

高齢者を狙った詐欺みたいな返事をするのは、同級の常磐くんだ。彼にはこの週末の籠城のことを伝えて、絶対に訪ねてこないように言ってあったのだけれど。

「二菱くん知ってるだろ。あいつ、花田さんからフライドポテトの前売り券をたくさん買ったらしくて、4枚もらったんだよね。さすがに一人で食べ切れる量じゃないし、一緒に買いにいかないか。」

「いかない。私はこの週末、部屋から一歩も出ないと決めたのだ。フライドポテトくらいで釣られると思ったら大間違いだ!」

「そうか。じゃあ一人で4人分食べることにするよ。月曜日にまた会おう。」

もっと食い下がられるかと思ったが、案外あっさりと常磐くんは帰っていった。これで、邪魔する者はいなくなった。思う存分、家の中でだらだらできる。沸かしかけのお湯でぬるいコーヒーを淹れて、一息つく。まだまだ土曜日は始まったばかりだ。とりあえず、二度寝するとしよう。カップをテーブルに置いて、再び布団に潜り込む。ああ、布団の中はなんと素晴らしいのだろう。この世の楽園だ。そんなことをつらつら考えているうちに眠ってしまった。

 

目が覚めると水の中にいた。これは夢だろうか。水絡みの夢を見るとおねしょをしてしまうから、早く覚めなくては。そう思って再び目を瞑る。しばらくして、意識が薄れていく。

再び目覚めると、やはり水の中にいた。どうやら夢ではないようだ。とりあえず起き上がらなくては。身体を起こそうとすると、違和感がある。手も足も、感覚はあるのに、いつもの場所にない。動かそうとしてもうまく動いてくれない。苦労して身体をよじってみると、水の中を進むことができた。そういえば、水の中なのに息ができている。ひょっとして、私は魚になってしまったのだろうか。頭の中で魚の動きをイメージして身体を動かす。すると思ったとおりに身体はついてきてくれる。やはりこの身体は魚のものだ。魚になって水の中を泳ぐのも案外悪くない。

そう思ってぐるぐると泳ぎ回っていると、岸辺に女装している常磐くんが見える。一体何をしているのだろうか。

(おーい!常磐くん!)

と、声に出そうとした。が、当然ながら魚の身体では声は出せない。だがどういう訳か声は届いたようで常磐くんは辺りをキョロキョロと見回している。

(おーい!常磐くーん!)

再び声を出してみる。

「まただ。頭の中に直接呼びかけてくるなんて。ひょっとして、本物のゆ、ゆ、ゆ、ゆ、幽霊?」

そんなことを呟いて、口をパクパクさせながらどこかへ歩き去ってしまった。

常磐くんが去った岸辺を眺めていると、景色に見覚えがあることに気付いた。ここは大学の敷地の端にある見鏡池だ。

 

翌日、常磐くんが再び岸辺にやってきた。今日は女装をしていなかった。

(おーい!常磐くん!)

懲りずに呼びかける。

「また直接脳内に呼びかけてくる…。しかし、この声はひょっとして…。」

(そう!私だ!私だよ!池の中にいるんだ。)

少しだけ水面から顔を出して返事をする。

「そんな詐欺師みたいな返事を寄越すのは、やっぱり君しかいないよな。」

常磐くんは私の姿に気付いたようで、歩み寄ってくる。

(やあ、2日ぶり。)

「2日ぶりって、君は自分の部屋に籠城すると言っていたじゃないか。いつから君の家は池になったんだい?」

(たぶん昨日からだね。)

「ところで、君はさっきからどうやって話しかけているんだい?頭の中に直接声が響いているのだけれど。」

(たぶん、テレパシーみたいな感じだと思うよ。だから、周りの人間には私の声は聞こえていないはずだ。)

傍から見れば、常磐くんは池に向かってぶつぶつひとり言をつぶやく怪しい人間にしか見えないだろうが、そんなことを気にする様子はない。

「それにしても、こんな狭い池の中にいたら、暇で仕方がないだろう?」

(それが以外とそうでもない。)

「というと?」

(テレパシー能力を使えば、インターネットに接続できることを発見したのだ。)

「それで、君はそのテレパシーを使ったインターネット接続で何をしているんだい?」

Wikipediaサーフィンと、クッキークリッカー。)

「クッキークリッカー?」

(知らない?毎秒1億枚のクッキーを焼く婆さんのゲーム。)

「ああ、少し前に一瞬だけ流行ったあれね。」

(うちの婆さんは毎秒1億枚どころじゃないスピードでクッキーを焼いているけどね。)

「まあ、とにかく元気そうでよかったよ。また来るから、それまで死ぬなよ。」

そう言って、常磐くんは去っていく。再びテレパシーをインターネットに繋げてWikipediaサーフィンを始める。今日は何を調べようか。

 

翌朝。朝から岸辺に人が大勢いて、こちらを見ている。何の騒ぎだろう、と少しだけ顔を出す。

「現場の朽葉です。こちらの見鏡池で、外来種アリゲーターガーが見つかったとのことです。あ!今顔を出しました!」

どうやら、情報番組で「外来魚、住宅街の池に突如出現!」みたいな特集をやるようで、その撮影らしい。その後も岸辺を行ったり来たりしていたが、気にせずWikipediaサーフィンをすることにした。それにしても、こんな小さな池にも外来種がいるとは、物騒なことだ。食べられてしまわないようにしなくては。

それから数日は、時折顔を出す常磐くんと会話をしたり、相変わらずWikipediaサーフィンをして過ごした。魚の暮らしも案外悪くない。

 

そんなことを思って眠った翌朝、またしても岸辺に大勢の人が立っていた。少しだけ顔を出して様子を伺う。今回は作業着姿の人間が大勢おり、手にはタモやら棒やらを持っている。どうやら外来種の駆除作業をしにきたらしい。人間たちを眺めていると、そのうちの一人が、タモを持ってこちらに走ってくる。何事だろうか、と思った次の瞬間には、タモに捕らえられていた。身体をよじって必死で抵抗する。しかし人間たちも手慣れたもので、あっという間に、私は陸の上に放り出されてしまった。

(やめてくれ!私は人間だ!殺さないでくれ!)

そんなテレパシーは届かなかった。久しぶりに上がった陸の上で、私の人生、いや魚生は儚くも幕を閉じた。