苦悩の大きさだけは文豪並み

なけなしの文才の無駄遣い。

Hamburg insanity


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ドアをくぐると、そこは…という書き出しを思い浮かべながら、ドアを押してみたところ、開かなかった。しばらくドアの前で四苦八苦していると、見かねた店員さんが中からドアを開けてくれた。

出鼻を挫かれて入店したのは、ハンバーグの店だ。そしてわたしはまたしても、不意を打たれる。なんと食券制なのだ。先程ドアを開けてくれた店員さんがメニューについて一通り説明してくれる。粗挽きハンバーグが3種類、スタンダードな洋食屋のハンバーグが2種類あるとのことであった。店の装飾からほとばしる粗挽きハンバーグへの並々ならぬ愛情と熱意を見るに、粗挽きを頼むべきなのは明白だ。だが、粗挽きハンバーグだけで3種類もあるのだ。どれを選ぶべきか悩んだが、ひとまず「登竜門」と書かれた「じゅわとろ」を選択した。何事も基本が大切である。

食券を買って通された席は、カウンターだった。席について、前を見ると、そこにも粗挽きハンバーグへの熱い思いをしたためた紙が貼られていた。もはや狂気と言ってもいいレベルであるが、それ故にハンバーグへの期待は高まる。

ぼんやりと貼り紙を眺めていると、先程の店員さんがやってきて、前菜とご飯と豚汁がセルフサービスで食べ放題であることを教えてくれた。ハンバーグの前にお腹がいっぱいになってしまってはいけないと思いつつも、空腹には抗えず、ご飯と豚汁を取って席に戻る。まず豚汁を一口すする。

豚の脂が味噌に溶け出した、アタックの強い味を想像していたのだが、思わず「ああ~」という声が漏れてしまう、とても優しい味。椎茸の旨味が前面に出ていて、豚の脂は引き立て役になっている。そして、ごろごろと入っている、根菜をはじめとした具材。これとご飯だけでも充分満足できるレベルだ。しかし、この店はハンバーグ屋である。果たしてこの豚汁を上回るハンバーグは出てくるのか。

しばらくして、熱々の鉄板に載ったハンバーグが運ばれてくる。じゅうじゅうという音と香りだけでもご飯が何杯でも食べられそうなハンバーグだ。ここにソースをたらしたら、いかに素晴らしいハーモニーが奏でられるだろうか。だが、今日はお預けである。店かおすすめする食べ方は、箸を使って、ソースをかけずに、だ。おすすめに従い、じゅうじゅう音を立てるハンバーグに箸を入れる。

すると溢れんばかりの肉汁が!とはならない。焼き加減はレアなのだ。表面こそ火が通っているが、中はほとんど火が通っていない。無論、テーブルに追い焼き用の台は置かれているのであるが、ここはあえて、火を加えずにおきたい。

一口食べる。生臭さや血臭さなどは全くない。粗挽きの肉と細挽きの肉が混ざりあい、口の中いっぱいに肉の旨味が広がる。ハンバーグの由来は、モンゴル人が食べていた生肉を叩きにしたタタールステーキを、ヨーロッパ人が加熱したものと言われている。そのハンバーグが、海を渡り、日本で再びタタールステーキの姿に、原初の姿に戻ろうとしている。

私の中のハンバーグという概念を大いに揺るがした一口目を終え、深く息をつく。確かにこのハンバーグにソースはもったいない。肉自体の味を殺してしまう。塩すらもったいない。肉を、肉自体をひたすら食らうべきである。ご飯に合わせようなどもっての外だ。肉とわたしの間に何が入ろうと、邪魔にしかならないだろう。そう考えると、カウンター席というのは、大変に都合が良い。他の物事に煩わされることなく、肉と対峙することができる。

一口、また一口と食べ進める。気がつくと鉄板の上からハンバーグは消え、わたしは空っぽの鉄板をぼんやりと眺めていた。こみ上げてくる寂しさに、思わず涙がこぼれそうになる。これは、深い、深い喪失である。

呆然としたまま店を出る。ハンバーグのない世界に一体どれほどの価値があるだろう。

だが、わたしは気付く。また注文すればいいのだ。つまり、ハンバーグのない世界は、いずれまたハンバーグに出会える世界なのだ。すると、世界は再びキラキラと輝き出す。踏み出した二歩目は、希望に満ちていた。