零れた虹の先に
雨上がりの街に、虹が零れていた。虹は液体ではないし、地面に零れているなんてあり得ないのだけど、零れていた。
恐る恐る近づいてみると、確かにそれは虹だった。そして、零れた虹の先にぼんやりと何かが見える。目を凝らすと、少しずつ視界がはっきりしてきた。そこには、律儀に座って、こちらを見ている猫がいた。その猫は、半月ほど前に死んでしまった我が家の飼い猫にとてもよく似ていた。
「金之助さん!」
思わず名前を呼んで、零れた虹へ歩み寄る。するとどうしたことだろう。都会の雑踏にいたはずが、一面に雲のようなふわふわしたものが広がる平原に立っていた。そして、目の前には猫がいた。思わず手を伸ばしかけたその時、猫は口を開いた。
「なんだ、もう来てしまったのか。」
なんと、猫は人の言葉を話した。
「わ、金之助さんが喋った。」
「おお、やっと吾輩の言葉が通じた。」
金之助さんとおぼしき猫は私とは別の驚きを覚えていたようだった。
「いかにも、吾輩は君らの呼ぶところの金之助である。」
我が家の飼い猫は、大昔の文豪のような大仰な口調でそう言った。そもそも、頭の鉢割れ模様が夏目漱石のようだったので「金之助」と名付けたのだけれど、まさか口調まで文豪のようだとは思わなかった。
「でも、金之助さんは、半月前に…。」
思わず疑いの目を向けてしまう。本当に金之助さんなのか。
「左様。半月前、吾輩は死んだ。そしてここは、君らのいうところの『あの世』だ。だから言ったであろう『もう来てしまったのか』と。」
金之助さんの言葉を信じるなら、ここはあの世らしい。
「ということは、私は死んだ?」
零れた虹に目を奪われている隙に、車に轢かれたとか、ビルの上から鉄骨が落ちてきて当たったということだろうか。
「吾輩の見たところ、こちらにいる連中と君の様子はどうも違うように思うから、何かの拍子にこちらに迷いこんでしまったというところであろう。どうにかすれば、もとの世界に帰れるのではないか。」
猫の観察眼に助けられる私である。
「そんなことよりも、いつまでそこに立っているのだ。早く吾輩を膝の上にのせて撫でろ。それが君の役割だろう。」
そして、猫に叱責される私である。生前の金之助さんもきっとずっとこんなようなことを言っていたんだろう。「にゃあにゃあ」としか聞き取れなくてよかったと心底思う。彼の求めに応じて、膝の上にかかえて、撫でまわす。彼とお別れしてほんの半月しか経っていないのに、随分懐かしく思える。
「かゆいところはございませんか。」
生前、そうしていたように彼に問いかける。
「うむ、結構。」
金之助さんは満足そうに目を細めている。
「ところで、あの世の暮らしはどんな感じ?」
金之助さんを撫でまわしながら、きいてみる。
「存外、悪くないぞ。腹も減らぬし、疲れることもない。こちらに居を移して正解だったかもしれぬ。」
金之助さんがあの世の暮らしを満喫しているようで、何よりだ。
「ただ…」
と彼は続ける。
「吾輩の下僕たる君たちと会えぬというのは、些か寂しいと言えぬでもない。」
そう言うと、金之助さんは照れ臭そうにしながら、そっぽを向く。このツンデレぶりがたまらなく可愛いんだよなぁ。
「それと、こちらに越して半月ほどだが、少しずつではあるが、自我というものが消えているように思う。消えている、というのは正確ではないかも知れぬ。我々の感知し得ぬ大きな存在に溶けていきそうになるのだ。」
死んだ人間は山の向こうに行って、個の霊ではなく、集合的な「ご先祖様」となるという話を聞いたことがあるが、そういうことだろうか。
「じゃあ、私がこっちに来るまでに、金之助さんも溶けてなくなってしまうの?」
そう考えると、なんだか前にも増して悲しい。
「どうであろうな。その辺りのことはよくわからぬ。なにせまだこちらに越してまだ半月しか経っておらぬのだからな。」
金之助さんは少し困った顔をする。その顔がまた可愛いのなんの。
「ただ、何十年かの久闊を叙している連中もいる。心残りがあると、そう易々とは溶けてしまわぬようだ。」
「金之助さんには、心残りなんてあるの?」
そう問いかけると、金之助さんは少し考えた後、
「吾輩には特にないな。今すぐ溶けてしまっても構わぬ。ただ、君がどうしてもというのであれば、ここでひとつ約束をしようではないか。吾輩としてはどちらでもよいのだがな。」
という。またしても照れ隠しをする金之助さん。ここで機嫌を損ねてしまっては大変なので、殊更丁寧に撫でながら、答える。
「是非お願いします、金之助様。」
金之助さんは満足そうに頷く。
「では、こうしよう。次に吾輩のもとに来るときは、土産を持ってきなさい。鰹節の一本でもと言いたいところだが、生憎とこちらに物は持ち込めない。だから、土産話を聞かせて欲しい。君の人生がどれほど愉快であったかを聞かせてくれたまえ。」
そこで、金之助さんに会ってからずっと堪えていた涙が、溢れ出してしまう。それを見た金之助さんは、慰めるでもなく、鷹揚に言う。
「どうしたんだね。返事をしたまえ。約束できぬなら、そう言いなさい。」
流れ出る涙をなんとか抑えて、絞り出すように返事をする。
「わかりました。約束します。」
「ならば結構。そろそろ雲が消えてしまうようだ。君ももといた世界に帰りなさい。」
そう言うと、金之助さんは私の膝からぴょんと飛び降りた。そしてそのまま私から遠ざかっていく。少し進んだ後、こちらを振り返る。
「達者でな。次は吾輩が退屈せぬよう、精々道草食って、遠回りして来るといい。楽しみに待っているよ。」
そう言うと、金之助さんは走り去る。
「金之助さん、待って!行かないで!」
そう言いながら手を伸ばした先には、しらないおじさんがいた。怪訝そうな顔をしながら、こちらを見ると、そのまま足早に去っていった。
足元を見ると、零れた虹はなくなっていた。きっと空に還ったのだろう。泣き腫らした顔をどうしたものかと思案しながら、街を歩く。今日は、いつもより少しだけ遠回りして帰ろう。