苦悩の大きさだけは文豪並み

なけなしの文才の無駄遣い。

料理人の肖像

今日、不思議な体験をした。
不思議な棒を拾ったのである。
「素敵なステッキ」という駄洒落があるが、その棒は素敵とはほど遠い質素な棒であった。
しかし、不思議な棒なのである。

それは確かに棒であるのだが、見れば見るほど葉っぱに見えてくるのだ。
果たしてこれは葉っぱであるのか、棒であるのか、と悩んでいると、今度は葉っぱ然としたそれが、カエルのように見えてくる。
果たしてこれは、棒であるのか、葉っぱであるのか、カエルであるのか。
いやいや、これは確かに棒だ、カエルであるはずがない、と思って、そのカエル然とした棒を見ると、どうだろうか、今度はアヒルに見えてくるではないか。
しかし、これはアヒルではない。
あくまでも棒なのだ。
私が拾ったのは棒だ。
もしこれがアヒルであったら、私は駅のコインロッカーにボブ・ディランの「風に吹かれて」を再生した状態のテープレコーダーを閉じ込めて、隣に住んでいるブータン人のために本屋から広辞苑を盗んでやる。
そう決心してそのアヒルのような、カエルのような、葉っぱのような棒を眺めていると、ふとプライベート・ライアンがみたくなった。
プライベート・ライアンの冒頭、雨あられのように銃弾、砲弾が降り注ぐ1944年6月6日のオマハビーチの光景がフラッシュバックしたのだ。
奇しくも脳裏にフラッシュバックした6月6日はカエルの日である。
やはりこれは棒ではなく、カエルなのだろうか。
いやいや、これは棒だ、と自分に言い聞かす。

この棒の正体について小一時間、悩んでいると小腹が空いてきた。
時計をみると15時を回ったところであった。
3時のおやつの時間である。
何か食べるものでも、と思い、棒をテーブルの上に置いて冷蔵庫へ向かう。
冷蔵庫を開けると、そこには大量の豆大福がこれでもか、というほど詰め込まれていた。
何故このようなことになっているのか、私にはわからなかった。
が、冷蔵庫の中には一部の隙もなく豆大福が詰め込まれている事実は覆しようもなかった。
このまま悪くしてしまうわけにもいくまい。
冷蔵庫から2つ3つ豆大福を取り出した私は小躍りしながらテーブルへと戻ろうとした。
一歩踏み出した瞬間、バキリ、と嫌な音がした。
足下を見ると、ひび割れた三角定規が落ちていた。
どうやら今の一歩で、三角定規を割ってしまったようだ。
それにしても、何故キッチンに三角定規があるのか。
考えても仕方がないので、私はそのひび割れた三角定規を拾い上げ、豆大福とともに、テーブルまで持っていった。
テーブルの上に置いておけば、再び踏むことはないだろう。

豆大福を食べながら再び棒を眺める。
相変わらずそれは、葉っぱに見えたり、カエルに見えたり、アヒルに見えたりする。
一体どういう仕組みになっているのか。
そもそもこれは棒なのか。
棒状のディスプレイで、ディスプレイに葉っぱやらカエルやらアヒルやらが映っているのではないのか。
ためつすがめつ棒を眺めていると、再び小腹が空いてきた。
時計に目をやると、17時を回っていた。
全く気付かなかったが、もう2時間も、この何の変哲もない棒を眺めていたのである。
夕飯まではまだ時間がある。
が、この空腹はなかなか耐え難いものがある。
私は悩んだ末、パンを食べることにした。
コッペパンを、2つ。

パンを手にとって、テーブルに戻ると、不思議なことが起こっていた。
棒が消えていたのである。
それだけではない。
いつの間に入ってきたのか、何者かがそこにいた。
私は驚きのあまり、パンを落としてしまった。
するとその何者かは私の方へ歩み寄ってきて、親切にもパンを拾ってくれた。
パンを手渡してくれたその人の姿を見たとき、私には全てがわかった。
あの棒の正体も、この目の前にいる侵入者の正体が何者であるかも。
私は、パンを拾ってくれたアヒル顔の侵入者に礼を言い、そしてコック帽を渡した。
するとアヒル顔の侵入者はコック帽を被り、満足そうに笑い、帰って行った。
ひょこひょこと歩くアヒル顔の料理人の後ろ姿はたいそう可愛らしいものであった。
私はその後ろ姿を見送りながら、携帯電話に手を伸ばす。
この一連の出来事を報告せねばならない人がいるのだ。
幸いなことに通話相手はすぐに電話に出てくれた。


「はい、こちら110番です。事件ですか?事故ですか?」