苦悩の大きさだけは文豪並み

なけなしの文才の無駄遣い。

誘惑するたぬき


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暑い暑い夏の、殊更暑い午後。外気温は今年最高を記録している。
そんな日に涼を求めてたどり着いたのは、大きな川が流れる街の蕎麦屋であった。
昼食の時間はとうに過ぎて、おやつの時間も少し過ぎようかという頃合いにも関わらず、客足は途切れることはない。運よく空席にありついて、メニューを眺めていると、視線を感じた。机の上に鎮座した愛らしい信楽焼のたぬきがこちらをみているのである。そして、こう言った。
「冷やしたぬきの大盛を注文しなさい。」
暑さのあまりとうとう幻聴がするようになったのか、はたまた、たぬきに化かされているのか。ぼんやりとした頭で考えてもまともな答えが出るはずもなく、私はたぬきの誘いに乗ることにして、冷やしたぬきの大盛を注文した。
注文して改めてたぬきに目をやると、確かにそれはたぬきの置物でしかなかった。
やはり化かされたのか。そう思ってそわそわしながら待っていると、冷やしたぬきが運ばれてくる。二人前はあろうかという蕎麦が盛られた丼を、ためつすがめつ眺めてみたが、木の葉ではないようだ。
毒を食らわば皿まで。思いきって一口すすると、確かにそれは蕎麦であった。しかも、ただの蕎麦ではなく、おいしい蕎麦である。
一口すする。わさびのツーンとした香りが暴力的に鼻をつく。たぬきの仕掛けた罠だろうか。しかし、悪くはない。つゆの甘さの絶妙なアクセントになっている。さらに一口。今度はたぬき蕎麦がたぬき蕎麦たる由縁の揚げ玉も口に入れる。今度は蕎麦のつるつるに、揚げ玉のさくさくが加わる。一口ごとにこんなにも表情が変わる蕎麦があるだろうか。
この絶妙な組合せの上に、おあげである。たぬきであるにも関わらず、きつねの大好物のおあげものっているのだ。つゆよりももっと甘味があるが、甘過ぎない絶妙な匙加減の味付け。それが染み染みになっているのである。これがおいしくない訳がない。おあげだけで、何杯でもご飯が食べられる!と思ってメニューに目をやると、きつね丼が用意されていた。誰しも考えることは同じようだ。
完璧すぎる組合せを前に、箸を止める手だてはない。あっという間に空になった丼を前に、幸福感に浸っていると、再び視線を感じた。
目をやると、たぬきの置物が、こちらを見ながら満足そうに頷いている。
人を化かすだけがたぬきではない。人を導くたぬきもいるのである。
たぬきと店への感謝を述べ、再び炎天下へ歩み出る。ふと足元を見つめると、顔と地面の間にぽっこりと盛り上がった、たぬき腹があった。

どうやらたぬきの導く先は、たぬきの世界のようである。