苦悩の大きさだけは文豪並み

なけなしの文才の無駄遣い。

若きウエテルの悩み

彼は上田照夫。親しい友人たちからは「ウエテル」と呼ばれている。そんなあだ名だからという訳ではないが、彼は腹を空かせている。若いころというのは、訳もなく腹が減るもので、25歳の彼も例に漏れず、訳もない空腹に襲われていた。時刻は午後3時をまわったところ。夕飯にはまだ早い。とはいえ夕飯まで空腹を堪え続けるのも辛い。

空腹を抱えて街を歩く彼の目に飛び込んできたのは、ラーメン屋の看板だった。看板の端には黄色い回転灯がピカピカと光っており、軒先には暖簾も出ている。そして、スープのいい香りが辺りに漂っており、空腹な彼には誘惑に打ち勝つ術があるはずもなく、吸い込まれるように暖簾をくぐっていった。

カウンター席に座り、店員を呼ぼうと手を挙げかけた彼の目がある文字を捉える。

「大盛無料」

その文字をじっと見つめ、彼は呟く。

「大盛無料」

なんと甘美な響きであろうか。とりわけ、彼のような腹を空かせた者には、天上の音楽であるかのように響く言葉である。その響きに身を委ねようとした彼を、彼の中に潜む理性が引き留めた。

「こんな時間に間食したら、夕飯が食べられなくなるから、並盛にしなさい。」

立ち止まった彼に、甘美な響きが呼びかける。

「大盛が無料なのですよ。何を迷うことがありましょうか。」

食欲を満たすべきか、理性に従うべきか。彼は若い。それ故に彼は悩む。

永遠とも思われるほど長い葛藤の末、彼は食欲に、いや「大盛無料」の甘美な響きに身を委ねることに決める。若さ故の空腹の前に、理性はとうとう負けてしまった。

ややあって、大盛のラーメンが運ばれてくる。喜色を溢れさせた彼はがっつくようにラーメンを食べ始める。8割ほど食べ終えたころ、彼に後悔が訪れる。さっきまであれほどお腹が減っていたのに、もうお腹がいっぱいになってしまったのだ。並盛にしておけばよかったと後悔してももう遅い。目の前の丼にはまだ麺が残っており、刻々とスープを吸ってのびている。彼は若い。それ故に己を見誤った。

どうにかこうにか、大盛のラーメンを平らげて店を出る。その足取りはよたよたとしており、若々しさを微塵も感じられなかった。

その後、結局夕飯までに彼のお腹が減ることはなかった。夕飯を抜いた結果、深夜になって再び空腹に襲われた彼は、水を飲んで飢えを癒やした。

「次からは並盛にしよう。」

その時、そう固く誓ったした彼であったが、その決意はそんなに続かないだろう。何故なら彼はまだ若いのだから。

The Other Side of the Curry

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「十分に発達した科学技術は魔法と見分けがつかない」

スタンリー・キューブリック監督が映画化した『2001年宇宙の旅』の原作者であり、SF界のビッグ・スリーとも呼ばれる、アーサー・C・クラークが『未来のプロフィル』の中で言及した「クラークの三法則」のひとつである。かつて不治の病とされた病気が、現代医学であっさり治ってしまったり、遠くに離れている人と文字や音声で即時に会話できたり、過去に生きた人から見れば、現代は魔法のような事物に満ちた時代であると言えよう。

食べ物についても、同じことが言える。かつては同質量の金と取り引きされたという胡椒が、いまや簡単に手に入る。海の向こうで栽培されている、見たこともないようなスパイスが簡単に手に入る。まるで魔法でも使っているかのようである。

しかし、魔法とはたったそれだけのものだろうか。電車に揺られて、徒歩では丸一日かかるであろう距離をあっと言う間に飛び越えた先の駅で、そんなことを考えながら歩き、その店にたどり着いた。科学技術という名の魔法の結晶、カレーの店だ。

入店してカウンターに腰掛けてメニューを眺める。カレーは2種類、ただしうち1種類は2度目の来店からしか頼めないシステムになっている。初めての訪れた店であったので、選択の余地はなく、キーマカレーにゆで卵をトッピングしたものを頼む。

しばらくするとグレープフルーツジュースが運ばれてくる。しかし、すぐに飲んではいけない。カレーが届くまで待つ必要があるのだ。これはウェルカムドリンクではない。

グレープフルーツの酸味を想像して、涎がじわりじわりと口の中を満たしていくのを堪えていると、カレーが運ばれてくる。スパイスの海にぽっかりと浮かぶライスの島、その島の中心には玉ねぎの山があり、頂きにはししとうが鎮座している。スパイスの海の混沌から、ししとうという秩序へ。皿の上に出現した小さな宇宙。これも魔法だろうか。

眺めてばかりもいられないので、右手にスプーンを持つ。そして左手には、ししとうを。これがこの店の流儀である。曰く、ししとうの苦味がスパイスの香りを際立たせるとともに、カレーの味わいを深める。そして、先にやってきたグレープフルーツジュースは、酸味と甘味をカレーに加えるとともに、口の中をリセットする役目がある。

まずししとうをかじり、口の中を苦味で満たす。そして、カレーを口に運ぶ。さらりとした水のようなソース。本当に味がするのだろうかと不安になるような透明感。しかし、スパイスの海である。幾重にも重なった香りが、辛味が、口の中を縦横無尽に駆け巡る。その奔流にもて遊ばれながら、グレープフルーツジュースを口をつける。苦味が一瞬スパイスを立たせるが、直後に酸味と甘味が奔流を鎮める。ここに至って、スパイスの海は、荒れ狂う海から、凪いだ豊穣の海へと姿を変えるのだ。

ししとう、カレー、グレープフルーツジュースの三角形を何度も辿る。その度に、海は荒れ狂い、凪ぐ。こうして世界は作られてきたのだろう。何度も、何度も辿る。やがて皿の上の世界は無くなり、口の中に凪いだ海だけが残っていた。世界の誕生から終わりまでを、距離も時間も超越して、あっと言う間に体験する。これこそ魔法であろう。カレーが魔法の結晶なのではない、カレーこそ魔法そのものなのだ。

会計を済ませて店をドアを開けると、店員さんが満面の笑みを浮かべてこう言った。

「またししとうかじりにきてくださいね。」

前言を撤回する。カレーは魔法などではない。再現可能性という点で、紛れもなく科学技術である。

NGY大学不思議譚⑤ガーになった男

6月上旬。梅雨入り前だというのに、連日雨が降り続けている。そんな憂鬱を振り払うように、学生たちは皆、うきうきとしている。今週末にはN大祭があるのだ。サークルにも部活にも属していない人間からすると、特にうきうきとする理由もなく、むしろ浮ついた空気を疎ましく感じるほどである。幸いなことに、木曜日から講義は休みになるので、大人しく部屋に引きこもっていよう。

土曜日。相変わらずの雨だ。この週末は絶対に家から出ないという決意をしているので、天気がどうだろうと関係はないのだが。布団から這い出てコーヒーを淹れようとお湯を沸かしていると、インターホンがなった。

「はい」

と出た声は、自分でも驚くほどガサガサしていた。季節外れの風邪でも引いたのだろうか。

「僕だよ、僕。」

高齢者を狙った詐欺みたいな返事をするのは、同級の常磐くんだ。彼にはこの週末の籠城のことを伝えて、絶対に訪ねてこないように言ってあったのだけれど。

「二菱くん知ってるだろ。あいつ、花田さんからフライドポテトの前売り券をたくさん買ったらしくて、4枚もらったんだよね。さすがに一人で食べ切れる量じゃないし、一緒に買いにいかないか。」

「いかない。私はこの週末、部屋から一歩も出ないと決めたのだ。フライドポテトくらいで釣られると思ったら大間違いだ!」

「そうか。じゃあ一人で4人分食べることにするよ。月曜日にまた会おう。」

もっと食い下がられるかと思ったが、案外あっさりと常磐くんは帰っていった。これで、邪魔する者はいなくなった。思う存分、家の中でだらだらできる。沸かしかけのお湯でぬるいコーヒーを淹れて、一息つく。まだまだ土曜日は始まったばかりだ。とりあえず、二度寝するとしよう。カップをテーブルに置いて、再び布団に潜り込む。ああ、布団の中はなんと素晴らしいのだろう。この世の楽園だ。そんなことをつらつら考えているうちに眠ってしまった。

 

目が覚めると水の中にいた。これは夢だろうか。水絡みの夢を見るとおねしょをしてしまうから、早く覚めなくては。そう思って再び目を瞑る。しばらくして、意識が薄れていく。

再び目覚めると、やはり水の中にいた。どうやら夢ではないようだ。とりあえず起き上がらなくては。身体を起こそうとすると、違和感がある。手も足も、感覚はあるのに、いつもの場所にない。動かそうとしてもうまく動いてくれない。苦労して身体をよじってみると、水の中を進むことができた。そういえば、水の中なのに息ができている。ひょっとして、私は魚になってしまったのだろうか。頭の中で魚の動きをイメージして身体を動かす。すると思ったとおりに身体はついてきてくれる。やはりこの身体は魚のものだ。魚になって水の中を泳ぐのも案外悪くない。

そう思ってぐるぐると泳ぎ回っていると、岸辺に女装している常磐くんが見える。一体何をしているのだろうか。

(おーい!常磐くん!)

と、声に出そうとした。が、当然ながら魚の身体では声は出せない。だがどういう訳か声は届いたようで常磐くんは辺りをキョロキョロと見回している。

(おーい!常磐くーん!)

再び声を出してみる。

「まただ。頭の中に直接呼びかけてくるなんて。ひょっとして、本物のゆ、ゆ、ゆ、ゆ、幽霊?」

そんなことを呟いて、口をパクパクさせながらどこかへ歩き去ってしまった。

常磐くんが去った岸辺を眺めていると、景色に見覚えがあることに気付いた。ここは大学の敷地の端にある見鏡池だ。

 

翌日、常磐くんが再び岸辺にやってきた。今日は女装をしていなかった。

(おーい!常磐くん!)

懲りずに呼びかける。

「また直接脳内に呼びかけてくる…。しかし、この声はひょっとして…。」

(そう!私だ!私だよ!池の中にいるんだ。)

少しだけ水面から顔を出して返事をする。

「そんな詐欺師みたいな返事を寄越すのは、やっぱり君しかいないよな。」

常磐くんは私の姿に気付いたようで、歩み寄ってくる。

(やあ、2日ぶり。)

「2日ぶりって、君は自分の部屋に籠城すると言っていたじゃないか。いつから君の家は池になったんだい?」

(たぶん昨日からだね。)

「ところで、君はさっきからどうやって話しかけているんだい?頭の中に直接声が響いているのだけれど。」

(たぶん、テレパシーみたいな感じだと思うよ。だから、周りの人間には私の声は聞こえていないはずだ。)

傍から見れば、常磐くんは池に向かってぶつぶつひとり言をつぶやく怪しい人間にしか見えないだろうが、そんなことを気にする様子はない。

「それにしても、こんな狭い池の中にいたら、暇で仕方がないだろう?」

(それが以外とそうでもない。)

「というと?」

(テレパシー能力を使えば、インターネットに接続できることを発見したのだ。)

「それで、君はそのテレパシーを使ったインターネット接続で何をしているんだい?」

Wikipediaサーフィンと、クッキークリッカー。)

「クッキークリッカー?」

(知らない?毎秒1億枚のクッキーを焼く婆さんのゲーム。)

「ああ、少し前に一瞬だけ流行ったあれね。」

(うちの婆さんは毎秒1億枚どころじゃないスピードでクッキーを焼いているけどね。)

「まあ、とにかく元気そうでよかったよ。また来るから、それまで死ぬなよ。」

そう言って、常磐くんは去っていく。再びテレパシーをインターネットに繋げてWikipediaサーフィンを始める。今日は何を調べようか。

 

翌朝。朝から岸辺に人が大勢いて、こちらを見ている。何の騒ぎだろう、と少しだけ顔を出す。

「現場の朽葉です。こちらの見鏡池で、外来種アリゲーターガーが見つかったとのことです。あ!今顔を出しました!」

どうやら、情報番組で「外来魚、住宅街の池に突如出現!」みたいな特集をやるようで、その撮影らしい。その後も岸辺を行ったり来たりしていたが、気にせずWikipediaサーフィンをすることにした。それにしても、こんな小さな池にも外来種がいるとは、物騒なことだ。食べられてしまわないようにしなくては。

それから数日は、時折顔を出す常磐くんと会話をしたり、相変わらずWikipediaサーフィンをして過ごした。魚の暮らしも案外悪くない。

 

そんなことを思って眠った翌朝、またしても岸辺に大勢の人が立っていた。少しだけ顔を出して様子を伺う。今回は作業着姿の人間が大勢おり、手にはタモやら棒やらを持っている。どうやら外来種の駆除作業をしにきたらしい。人間たちを眺めていると、そのうちの一人が、タモを持ってこちらに走ってくる。何事だろうか、と思った次の瞬間には、タモに捕らえられていた。身体をよじって必死で抵抗する。しかし人間たちも手慣れたもので、あっという間に、私は陸の上に放り出されてしまった。

(やめてくれ!私は人間だ!殺さないでくれ!)

そんなテレパシーは届かなかった。久しぶりに上がった陸の上で、私の人生、いや魚生は儚くも幕を閉じた。

新世界まで

終わりの始まりは、とある国の地方都市での肺炎の流行だった。

風邪や季節性のインフルエンザが流行するにはまだ早い9月の下旬、その都市では、原因不明の蕁麻疹が流行し、100人近くが亡くなった。この異常事態に政府は調査を開始し、この蕁麻疹が未知のウィルスによるものであることを突き止め、その都市を封鎖した。しかし、調査に時間を要したこともあり、すでに市中に感染者は溢れていた。さらに悪いことに、その都市には大きな国際空港があり、肺炎は市内や国内のみならず、全世界へ広まっている可能性があった。そして、可能性では済まなかったことは、都市封鎖から1週間後に明らかとなった。世界各地で、蕁麻疹の症状を訴える者が医療機関に殺到した。当初は医療機関も機能していたが、医療関係者にも感染が広がると、徐々に機能不全に陥っていき、多数の死者が出ている国もあった。各地の都市は封鎖され、経済は停滞しはじめ、今世紀最大の混乱と言っても過言ではない状況だ。経済の停滞を打開するには戦争しかないと主張する政治家もいるそうで、非常にきな臭い、嫌な状況だ。

そんな世界の状況を尻目に、僕の住む街は平和だった。日本の、島国という立地がプラスに働いて、日本ではさほど多くの感染者が出ていなかった。空港での検疫、そして隔離が適切に行われた結果だ。もっとも、本当はすでに蔓延していて、政府がそれを隠蔽しているだけという声も聞かれるが、少なくとも僕が生活を送る範囲では、そんなこともなさそうだ。とはいえ、完全に平穏とも言い難いこともあった。各国が都市封鎖に踏み切ったことで、輸出入が止まり、トイレットペーパーがなくなるというデマが流れ、ドラッグストアやスーパーに人が殺到したとか、バナナを食べると感染しないという噂が流れて、バナナの買い占めが起こったり、世界で起こっている混乱に比べたら、平穏といえるものの、心にさざなみを起こすような出来事はいくつも起こっていた。はじめは傍観していたものの、だんだん傍観していることにも疲れてしまって、最近では、ニュースやSNSを見るのをやめて、ただ自宅と職場を往復するだけの生活を送っている。

ある日曜日、珍しく母親から電話がかかってきた。こんなご時世だし、息子が心配になったのだろうか。

「いよいよ始まってまう!あんたもはよ逃げなかんよ!」

母は開口一番、そんなことを言った。なんのことかわからず口篭っていると、

「あんたどこにおるの?はぁ?家?!テレビ見とらんの?はよテレビつけやあて。」

言われるがままにテレビをつける。母親が言っているニュースはどのチャンネルでやっているだろうか。そんな心配を一瞬してみたが、無駄な心配であったことはすぐにわかった。どのチャンネルも同じニュースを流している。ニュースによると、世界各国の国境に軍隊が集結し、にらみ合いの状況が続いていて、今日の11時に政府から重大な発表があるとのこと。この発表は世界各国で、それぞれの政府から、同時刻に行われ、世界の状況を考えると、疫病が最初に発生した国への宣戦布告であると思われること。そしてそれはすなわち第3次世界大戦の始まりであり、開戦と同時に世界中が核の炎で焼き尽くされること。そんなニュースを延々とやっていて、どのチャンネルもお通夜みたいな雰囲気だった。時計を見ると、10時30分。あと30分。30分で世界が滅んでしまう。

「あんた昔からとろくさいで、はよ逃げなかんよ。落ち着いたら帰っておい…」

途中で電話は切れた。電波状態が良くないようだ。それにしても、この非常時だというのに、一方的に話したいことを話す母の相変わらずさに思わず笑ってしまうが、笑っている場合ではない。あと30分で世界は滅ぶ。逃げなくては。でもどこへ?避難場所になっている近所の体育館だって、核攻撃を受けたらきっと吹き飛んでしまう。どうしよう。そもそも何を持っていったらいいんだろうか?そんなことをぐるぐるぐるぐると考えながら、避難する準備を終え、とりあえず体育館まで行こうと、家を出たのは10時55分を過ぎたところだった。ニュースによれば、宣戦布告と同時に、核攻撃が行われ、それに対する報復、さらにそれに対する報復、さらに報復、報復、報復…その結果、世界中が灰燼に帰すとのことだった。急がなくては。どれほど効果があるかわからないけれど、ひとまず避難場所に行かなくては。慌てて駆け出そうとすると、足がもつれて転んでしまった。昔からとろくさい自分をこれほど恨んだことがあったろうか。

起き上がって、荷物を拾う。焦ったところで仕方がないのだ。この際だからゆっくり行こう。転んだ拍子に頭でも打ったのだろうか。あれだけごちゃごちゃにこんがらがっていた頭の中が、妙にすっきりして落ち着いていた。人の気配が消えて、静かになった街を歩いていると、サイレンが聞こえた。国民保護サイレン。世界の終末を告げる角笛の音。相互確証破壊による核戦争の幕開け。ああ、終わる。世界が終わる。焼き尽くす炎が降ってくるであろう空を見上げて、目を瞑る。これで、おしまいだ。

しばらく目を瞑っていたものの、何も起こらない。宣戦布告はされなかったのだろうか。核戦争は?世界の終わりは?さっきすっきりした頭が、またこんがらがってきて、目眩がする。とりあえず、避難場所まで行ってみよう。

体育館にたどり着くと、なぜかお祭り騒ぎになっていた。世界が終わるから、みんな気が狂ってしまったのだろうか。それにしても何故みんな口々に「平和万歳!世界万歳!」と言っているのだろうか。人の輪から少し離れて、涙を浮かべながらそれを眺めているおじさんに、何の騒ぎか尋ねる。

「あんたテレビ見とらんのか?あっちにあるからはよ見てこやあ」

一日に二回も同じことを言われるとは。言われるがまま、テレビのある方へ行く。さぞ悲惨なニュースが流れているのだろうと思っていたのだが、さっきはお通夜みたいな雰囲気でニュースを読んでいたキャスターが、満面の笑みで何かしゃべっていた。お祭り騒ぎの人々の声でかき消されてよく聞き取れないので、スピーカーに耳を近付ける。

「疫病という世界の苦難の前には、人種も宗教も、国籍すら関係ない。苦難の中にあってこそ、手を取り合わなければならない。そのためにまず世界中の軍隊が武装を放棄するという合意がなされた。手を取り合うのに、武器は不要である。この合意はこの瞬間より発効し、未来永劫継続する。いまこそ世界はひとつになる時なのだ。」

ということを総理大臣が話していた。そして世界中の国境でにらみ合っていた軍隊が、武器を投げ捨て、抱き合っている映像も繰り返し流れていた。ゆくゆくは各国の政府を統合した世界政府が立ち上がって、疫病への対策を世界規模ですすめるらしい。疫病が流行っているのに抱き合うのは、あんまり良くないのでは、と考えながらも、目からは涙が溢れていた。

苦難を前にして、奪い合うのでは助け合う。そんな大きな一歩を世界が踏み出したのだ。決して易しい道ではないし、途中で絶えてしまうかもしれない。だが、この道は続いているのだ。新世界まで。

Crocodile Dandyism

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学生時代、指導教官に「頑張らないというのが君なりのダンディズムなんだろうね」と言われたことがある。当時の私は、今以上に怠惰な人間で、その言葉の真意を理解しようとすることさえ面倒がる人間だった。あれから10年以上経ってわかったのは、自分自身に「努力をする」という才能が決定的に欠けているということだ。そして仮に努力していたとしても、さも努力していないかのように振る舞ってしまう。まさしく指摘されたとおりの、頑張らないというダンディズムに従って生きている。この重大な欠陥を抱えたままどう生きるべきか。そんなことを思い悩んでいると、無性に腹が減る。そうでなくても腹は減るのだけれど。この空腹は何で満たすべきか。カレーの外にはないだろう。

カレー屋さんのドアをくぐると、スパイスの香りが充満している。この時点で大概の悩みごとの8割くらいは消えてなくなってしまうのであるが、今回抱えた悩みの大きさを考えると、もっと強力な刺激が必要である。メニューに目をやると、週替りカレーは辛口のクロコダイルのビンダルー、さらにクロコダイル手羽先のトッピングができるとのことで、迷わずオーダーする。ワニの大きな口に悩みを全て放り込んで、噛み砕かせてしまえばいいのだ。

しばらくするとカレーが運ばれてくる。炙ったワニ肉の香ばしい香りとスパイスの香りが混ざり合って、これ以上ないほどに食欲をそそる。カレーの上にはクロコダイルの手羽先が凄まじい存在感を放って鎮座している。かつてこんなカレーがあっただろうか。

まずはカレーをひと口。辛さが脳天を揺さぶりながら突き抜ける。さすがに辛口だ。ただ、唐辛子の辛さだけではないので、辛さが心地良い。具材のワニのタンも食感のアクセントになって面白い。クロコダイルという変化球な食材を使いつつも、カレーとしては期待を裏切らない高いレベルを叩き出してくるのは流石だ。ぐわんぐわん脳天を揺さぶられながら、カレーを食べすすめる。視界には常にクロコダイルの手羽がチラついている。いや、チラつくというレベルの存在感ではないのだが。

カレーをあらかた食べ終わり、いよいよクロコダイルに取りかかる。ワニと握手するという奇妙な体験をしながら、二の腕にかぶりつく。クセのある味を予想したが、あっさりとしている。食感は鶏のモモ肉に近いが、さらに弾力があって、噛み切るのに力がいる。表面に振りかけられたスパイスと相まって、これまでワニを食べてこなかったことを後悔するほどにおいしい。二の腕を食べ終えると、次は革に覆われた前腕。革をどうすべきか少し悩むが、触れるとすぐに剥がれたので、ささっと剥がしてかぶりつく。スパイスがかかっていないので、ワニ肉本来の味が楽しめる。スパイスなしでは少し生臭さを感じるので、臭みを消して食感を活かす、カレーという調理法はワニにぴったりである。ワニを平らげて、皿に残ったカレーも残さず食べる。あっという間に、というにはいささか時間をかけて、完食。たっぷりワニ肉を食べたので、満足感はいつも以上だ。

お腹を満たして店を出ると、抱えていた悩みはどこかへ去ってしまっていた。根本的な解決にはなっていないことは重々承知である。だが思い悩んで、腹を空かせたまま生き続ける訳にもいかない。死はいつ訪れるかわからないのである。この瞬間を切り取ったコマの外に「死まであと1日」と書かれているかもしれないのだ。ならばどう生きるべきか。新たな悩みが生まれそうになったところで、ワニのように大きな口を開けてあくびをした。春の日差しの下では、眠気が押し寄せて、思い悩むのに向いていない。もう少し悩むのに適した時期が来るまで、一旦この悩みは沼にでも沈めておこう。そう思って踏み出す一歩は、ワニのようながに股だった。

The Doomsday Curry

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世間の狂騒に、杜甫でなくても「国破れて山河在り」と嘆きたくなる日々。杜甫ほどの才があれば、あのような素晴らしい詩が出来上がるのだが、才を持たない人間はただただ溜め息を漏らすしかない。そして困ったことに、溜め息ばかりついていると、妙にお腹が減る。減った腹は何で満せばよいのか。徒に歩き回っていると、カレー屋の看板が目に入った。カレーの外あるまい。
入ったカレー屋は、南インド系のカレーのお店で、南インド系のカレーといえばミールスである。ワンプレートのカレー定食ともいうべきミールス。存在は知っていたものの、これまで出会うことがなかったので、メニューをみて、思わずにやけながら、店名を冠した「エリックミールス」を注文する。
水に口をつけて一息つくと、すぐにプレートが運ばれてくる。小さな器に盛られたチキンカレー、ココナッツキーマカレー、サンバル、ラッサム、副菜(黒豆とかぼちゃのココナッツ煮、チキンティッカ)。そしてイエローが鮮やかなジャポニカ米のターメリックライスと、バスマティというインディカ米。一皿にこれでもかと詰め込んだ様は、まるで満員電車である。カレーのラッシュアワーだ。
まずはそれぞれ、ひと口ずつ食べる。チキンカレーはピリリと辛いが、辛すぎるということはなく食欲をそそる。キーマカレーはまろやかで穏やかな味わい。さながら全てを貫く矛と、全てを防ぐ盾のようである。矛で盾を突いたらどうなるか。楚の商人は答えられなかったが、カレーにおいて、答えは単純明快だ。2つのカレーを混ぜたらどうなるか。おいしくなるのである。
そして米であるが、カレーライスといえばジャポニカ米がスタンダードだが、インディカ米のサラサラした感じも、油分の少ないカレーとマッチする。1993年の米騒動の時は、インディカ米がまずいまずいと言われていたが、インターネットでいくらでもレシピが調べられる現代においては、仮にインディカ米しかなくなってしまっても、おいしく食べることができるだろう。その場合、各地が漏れなくカレーの香りに包まれることになるだろうが。
カレーを混ぜたり、そのまま食べたりしていると、あっという間に皿はからっぽになる。お腹が満たされると、気持ちも幾分満たされて、再び狂騒の日々に戻る気力もほんの少し湧く。寒風吹きすさぶ街へ歩み出ると、先日かなり思い切って散髪した頭が寒い。この長さでは簪を挿すこともできないだろう。

The Curry Fountains of Paradise


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「目には青葉山ほととぎす初鰹」と詠んだのは、江戸時代の俳人、山口素堂である。鰹といえば、初夏の魚で、特に初鰹といえば人々の憧れの的であった。
早足で過ぎる季節にすっかり疲弊してしまった金曜の昼休み、癒やしと刺激を求めて駆け込んだカレー屋のメニューには、鰹のだしカレーがあった。初夏というには早すぎる時期ではあるが、季節の足の速さを考えると、ちょっとくらいフライングしても問題はないだろう。
注文してしばらくすると、カレーが運ばれてくる。キーマカレーをトッピングした鰹のだしカレー。
たまごの切り口から黄身がとろりと流れ出す様は、深い山にやっと訪れた春が、雪を溶かし、麓へ、そして海へと流していくところを彷彿とさせる。たどり着いた海には鰹が待っている。スパイスの海を縦横無尽に泳ぎ回る鰹だ。その海をスプーンで掬って、ひと口。凪いでいるように見えるが、とても荒々しい海だ。鰹の旨味とスパイスの調和などというものは存在しない。両者ともに、一歩も譲らない自己主張を繰り広げている。その争いが、その争いこそが、このカレーの楽しみである。「争いは憎しみしか生まない」というが、このカレーに限っていえば、争いによって生まれるのは、憎しみというどす黒い感情ではなく、生命の躍動だ。つまり、このカレーは命が満ち満ちた荒ぶる海なのである。
ひと口ごとに生命の躍動を感じながら、食べていると、皿はあっという間に空になった。それと同時に、店に入るまで感じていた疲弊感が、幾分解消されていた。「初物を食べると寿命が75日伸びる」という言い伝えは、あながち間違いではないのかもしれない。そんな気持ちを抱きながら店を出ると、春の日差しが歩道を満たしていた。そこへ足を浸して、思い出した。先週鰹を食べたので、今日の鰹ははつもではないことを。鰯の頭も信心から。知らぬが仏。